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元氣メグル日々 エリカのブログ

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ジンバブエ滞在記7月20日~8月14日

村でブログ更新がうまくできず、首都ハラレに来たタイミングでまとめて更新します。

7月20日
一年振りのジンバブエ。気温15度、今年は寒いよと、「chanado」 とタクシーの運転手に言われ。酷暑の日本から来て、この気温差は厳しい。娘も6歳になり、年々旅も楽になる。空港でも飛行機のでも、楽しそうに過ごし、ちゃんと歩いてくれる。

空港は変わらず名前はロバート・ムガベ国際空港だが、掲げてあった写真は見慣れた顔でなく、ムナンガクワ大統領だった。
一年で村の義理の22歳の息子が16歳の嫁をとっていた。同じ村の親族に嫁いだモンドロ出身の人の妹をもらったとのこと。「もう3年も独り暮らしだから」と言っていたが。乾期で菜園にも何も実っていないし、家には相変わらず食べ物もなく、主食のメイズのみ沢山あった。今年も息子と買い物するところから始まる。こんな生活でも、結婚していくジンバブエ。
さすがにお嫁さんが何でもしてくれて、家は綺麗で、私が家事をすることもない。

なんて気持ちが良いのだろう。何にもないのに、心が満たされている。
村へのバスに乗るところで「アマイマジンバクッパ」と声をかけて荷物を持って、バスに乗せてくれる顔見知り。村を歩けば、「アイネー」と村の子供たちが娘を覚えていて寄ってくる。そして、自由に走り回り、遊びあう。
この穏やかな生活、何もない幸せな生活。


7月22日
村で自給自足に近い生活の息子。乾期で菜園での農業も難しく、現金の収入手段はまたこの干乾しレンガのブックス作り。1000個25ドル程度で売れるのだが、沼地で泥を型に取って、陽に干して、その後積み上げて焼き上げる。今回は7000個と言っていたが、焼き上がりまでに崩れるものも多く、大変な作業だ。その後、買い手が見つかって、引き渡して、でもみんな現金は持っていないので分割で引き渡され。
相変わらず、ゆったりとした、不合理な経済が回っている。
これがジンバブエ。暮らしているときは、なんのビジネスも私には難しいと思わされたこの暮らし。
娘の幼なじみの夫婦は、子供4人祖父母宅において南アフリカに行ってしまった。娘は幼なじみに会えず寂しがっていた。
「大統領が変わったって、何も変わらないよ。経済は前より悪いよ。ATMにみんな並んでも銀行にキャッシュはないよ。この選挙でジンバブエは変わらなければ」と村人は言う。でも与党は強い。「独立戦争をした年寄りが指示しているんだよ。若いものは野党MDC指示だ」というが。同じような台詞がムガベ時代も聞かれているなぁ。
ジンバブエのZNPF 政権が続き、野党は分裂を繰り返し自滅していき結局政権交代は難しい様は、日本と一緒といつも思う。


7月25日
同じリンガ村だが、もと住んでいたビレッジ7は幹線から4km。そこから奥に7kmほど行ったビレッジ4Bのチアニケ家に移動した。この移動の車を捕まえるのに毎回一苦労。こんな森を抜けるオフロードの道の先によく住んでいるといつも思う。

レオナード・チアニケは10人前後の孫を面倒見ているが、今年は4人が南アフリカで働く親元に引き取られていて、娘の仲良しの子も南アフリカに行ってしまっていた。
子供たちのポスポートがなくても、バスドライバーとベイトブリッジのイミグレーションの役人に$500ぐらいの金を渡せば、通過できるそうだ。まともにイミグレーションを通ると、子供の出生証明書など、煩いのに。

それでも孫6人ほど面倒見ているので、娘の遊び相手はいる。
おもちゃなんてなくても、手作りのおもちゃや、泥をこねて子供たちは本当に無邪気。

チアニケ家では、キッチンの小屋の屋根を茅葺きから金属製のものへ改修中だった。茅葺きだと、数年で葺き替えなけてばならないので、金属製のものもほうが長期的に安くつくようだ。
そのせいで、この寒さの中で外でクッキング。
チアニケいわく、6~8月の冬が寒いと、雨が多く降って作物がよく育つと言われているそうだ。

牛18頭、山羊5頭、鶏30羽ぐらい、ウサギ10頭ほど、相変わらず豊かな暮らしを維持していた。野ネズミのbewaを料理してくれた。家ネズミは食べられないのに、見た目は同じようなネズミにしかみえない。


7月28日
村人の家庭菜園に一株だけ麻が植えられていた。
セクル・チアニケに「違法でしょう」と聞いてみる。「勿論違法だ。でも儀式で祖先の霊がブーテ(嗅ぎ煙草)やバンジ(ガンジャ)を求められたら、捧げなければならない。スピリッツに答えられないことのほうが、人間の作った法より問題だ」と言っていた。
ショナ人の伝統的なこの考えは正しいと思う。経済や政治などの利害より、霊的な世界からのメッセージのほうが、人類にとって本質的なのだ。
本当に、このムビラの世界観は素晴らしい

娘は牛の搾乳を見て言っていた。
「日本はウソだね。牛も山羊も牧場とかで、狭い中で囲まれちゃって。日本の子は、牛も山羊も家のそばを歩き回って暮らしているの知らないんだね。」
そして、子牛を見ながら「可愛いね。でも大きくなったら、食べられちゃうもんね。」
このところ、少年たちが野ネズミのベワを毎日取ってくる。娘も他の子と一緒に、内臓を出すのや燻すのを手伝ったりしている。食べ物がどこからくるのか、ジンバブエの村の生活はよく分かる。
娘は、昨年より成長して、井戸から自分で水を汲めるようになったり、洗濯も上手になった。日本との違いが、具体的に分かるようになった様子。
「ジンバブエは自然で自由でいいねぇ。日本に帰りたくないねぇ。」と言っている。

毎年1~2ヶ月チアニケ家で過ごすのも、今年で3年目。ますます居心地いい。
私の子育て時代と娘の少女時代にとって、この経験は欠けが得ないものになるだろうなぁ、と思っている。

8月1日
7月30日に行われた選挙結果を、今まさにラジオで報じていて、家の人はお昼ご飯の途中で、ラジオを聞きに行ってしまいました。
村でも、政治集会が盛んに行われて、みんなムナンガクワのザンビア(腰巻き)やTシャツをもらっていて、選挙結果にも熱心に関心を持っている印象。
結果は与党ZUMUPFの圧倒的勝利。勿論大統領はムナンガクワ氏。ジンバブエは、良い意味でも悪い意味でも変わらないです。

チアニケ家は、キッチンの修理中。
ショナの伝統的な家の内部の黒色は、タイヤを燃やして粉にして、それをセメントに混ぜて作っているなんて知らなかった。昔は黒い砂を見つけて使っていたそうです。
「家の中、黒より青がいいよ」という娘。囲炉裏で黒い煤が出るの、他の色だと汚れが目立つので黒と決まっているそうです。

ラポコという雑穀を脱穀する娘。
ラポコのサザは、ジオと呼ばれて茶色で私は大好き。このラポコもメイズも脱穀するとき、棒でとにかく叩く。そして、粒と皮下の部分を籠の上から落として、実は重くて真下に落ち、他の部分は風に飛んでいく。本当に原始的な脱穀の仕方。
家の女たちは、半日かけて大量の洗濯物を洗っていて、午後になっても終わっていない。
のどかです。


8月2日
大統領と国会議員の選挙結果が出た夜、「今日はみんな集まってお祝いしているから、バーに行ってくる」と夜酒場に出掛けたムビラの師匠セクル・チアニケ。
「みんなZANUPF が再びパワーを取り戻したと賑やかだった」と上機嫌でした。

選挙結果は、首都ハラレや第2都市ブラワヨでは、野党MDCが議席をとり、地方は与党が殆どの議席を取った。
「今の若者世代は、すぐ政府に頼り強いリーダが必要だ、チェンジだとか言う。企業や工場の誘致などいうが、外国企業なんて来たって、やつらが儲かるだけで人々に富が分けられるものではない。この村での生活は、家でも食べ物でも、みんなが助け合って自分達で作って暮らしている。今の若者は農業を嫌がり、金を求めて南アフリカに行ったり、ハラレに出ていくが、自分で物を作り、自分で生活を作る努力もせずに、政治や企業に頼っているんだ。外の国は非難するが、我々ジンバブエはZANUPF でいいのだ」とのお話。
ここリンガ村は、独立後白人の土地を没収して政府が人々に土地を与え、農業指導をする再入植地ですから、こういう意見になるのかもしれません。

外国は、もっと民主化された政治が必要だとか言います。しかし、国民の声は、ムガベ時代も今回も変わらず、ZANUPF 支持なのです。
この65才のセクルの話は一理あり。政府や企業に頼らず、自分達で自分達の生活を作る自給自足的な生き方は、政治や経済に左右されにくいです。

「みんな教会に行って、神様助けてくださいと言ったって、何も得られない。ムビラを作り、弾いて自分達の文化を見てくれと外国人に言うほうが、こうやって金も貰える。ただ祈って訴えないで、自分で努力して働かないと富は来ないさ」
なかなかチアニケのような素晴らしいムビラ職人もプレイヤーも少ないのですが、お話に納得。


8月8日
娘は、セクル・チアニケがムビラを作っている横で、泥遊びをするのが好き。
そんなに側のいなくても、と思うほど側で飽きずにカップに水と砂を入れてこねて遊んでいる。
私もセクル・チアニケの横でムビラを弾いて練習している。耳の良いチアニケは、ムビラを作りながら、ビートが違う、音が違うと指摘してきて、練習していても緊張感がある。

ひとつのニャマロパチューニングムビラを作るのに、5日ぐらい。2つ注文したら、2台分のキーを同時にハンマリングしていた。スプリングを炭で焼いて叩くので、炭の消費を考えても、その方が合理的なのだろう。丁寧に定規を使って、木にも金属部分にも線を引いてから、形を整えていく。だから歪みのない正確なムビラが出来上がる。いつも驚くのが、チューニングの念の入れ方。チューニングだけで1時間以上かける。仕上げるムビラで何曲も弾いて、バランスをよく調節している。チアニケの美しい曲に、聞き惚れて、つい練習をやめてチューニング中のムビラの音を聞いてしまう。

チアニケの息子たちは、ムビラの儀式などにでて育ってきているのに、誰もムビラを弾かない。チアニケの兄弟は、亡くなってしまったけれど素晴らしい演奏をした兄もいたし、今はポストリーチャーチに通っている兄も、ムビラは作れるし弾けるそうだ。
1980年代ぐらいまでは、葬式でも祝い事でも、人が集まればムビラを弾いたもので、今よりもムビラは重要視された。今は、キリスト教に多くのものが変わり、ムビラの儀式も減ったし、学校も自分達の文化を教えることもなく、若い世代がムビラに興味を持つことが少なくなっている、とセクル・チアニケは嘆いていた。


8月14日
リンガ村、ビレッジ1のチアニケ家の親族で行われたクロウグウワに参加した。
クロウグウワは日本で言う法事で、ショナ族では死者の魂がその家に帰り、一族を守る魂となるために必要な儀式だ。今回は2年前に他界したその家の家長のクロウグウワを未亡人が主催した。

親族が集まり、一晩中ムビラが弾かれ皆が踊るのは、他の儀式と同じ。
朝、ヤギが生け贄にされ、ヤギの一部が家の入り口に埋められ、聖なるビールが注がれる。以前のグウワではヤギの頭部だったが、今回は睾丸だった。それを経て、死者がその家に帰って来たとみなされ、女たちがルルルーとムルルで迎える。
今回は初めてみたが、聖なる杖チンボが2本おかれ、それを未亡人が3回跨いだ。それは夫が他界してから、今まで男性に接していないという証を表す。もし、ここで亡き夫の一族と再婚する意志がある時は、その杖を夫の兄弟の誰かに渡すそうだ。今ではその風習もほとんど行われないというが。
それから子供たちがならんで座り、長男に布がかけられ聖なる杖が渡された。これは家長の魂が長男に移り、家長の役割をこの長男が行うということを表す。親族のものが、父が帰ってきたことを祝福する声をかけながら、長男の前におかれた皿に小銭を入れていく。
儀式の小屋の中では、亡き父の魂に守られた長男に、親族が喜びや尊敬の挨拶を捧げていた。
こうして朝の儀式が終わり、またムビラが奏でられ人々が踊り、最後に2つの土で封をされていた聖なる酒の壺の封を開けて、儀式はすべて終了する。

2008年、モンドロで亡き師匠パシパミレの兄弟クロウグウワに参加して以来、10年ぶりだ。あの頃は、ハイパーインフレーションが一番酷い時期でスーパーに物はなく、儀式用のパンを用意するのも本当に大変だった。携帯電話を持っている人は少なく、モンドロの親族とのやり取りに毎回人を使いに出して、返事をもらっていた。
また、ここは独立後の再入植地で元々有力な農家が選ばれて、移住したので全体的に豊かな村なのだ。モンドロの様な古くからのクムーシャの貧しさを再認識した。
今回、ハラレに住む親族たちは豊かで、ヤギは3匹も捧げられ、パンも肉も食べきれないほど出された。そして、多くの人がスマートフォンを持っているので、儀式の途中でもフラッシュで写真やビデオが撮られ、自撮りしたりしている。時代が変わったなぁ、と思った。

今回クロウグウワに参加して考えた。日本で言う輪廻転生は、この現世が終わったら、霊魂は天界へ帰り、現世の記憶はなくなり、新な使命を持って新たな生へ生まれ変わる。
しかし、ショナ族も日本も伝統的に死者の魂は滅びることはないと考えるが、ショナ族は霊魂はその家に帰りその親族の誰かの守護霊となり、子孫を守っていく。
日本で言う輪廻転生とは捉え方が、少々違うと感じていたポイントが理解できた。


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