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元氣メグル日々 エリカのブログ

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追悼 師匠ルケン・クワリ・パシパミレ

3月22日、1970年代「Mhuri yekwa Rwizi」のメンバーとして「Shona Mbira Musice」をレコーディングして、世界にジンバブエのムビラを広めた巨匠ルケン・クワリ・パシパミレ氏がこの世を去ってしまいました。パシパミレ氏と日本ツアーをしていたとき、20年以上も前に「Shona Mbira Musice」に影響されて、民族音楽にのめり込んだと言う年季の入った多数の方々に会って、改めて師匠パシパミレの偉大さを思ったものです。
これでMhuri yekwa Rwiziで生存しているメンバーは、コスマス・マガヤのみ。
時代は流れます。

私とパシパミレ氏の出会いは、2002年10月でした。私は、アフリカ縦断の旅を一応終え、1ヶ月だけ日本に一時帰国し、その年の8月に訪れたジンバブエでムビラという楽器と儀式に興味を覚え、放浪の旅再出発としてまたジンバブエに行きました。結局、怪我をし、その先に進むことなく2003年3月に私の旅は終わるのですが。
パシパミレは、そこ頃日本人の常宿palum rock villaに来てムビラを教えてくれていました。仲良くなった、ムビラ・ジャカナカのマサ、ムビラ・ジャンクションのクマさんもパシパミレに習っていたので、私も気楽に習うことにしました。
音楽経験もない私は、ただ見てそのマネをするという教え方に、リズムも理論も分からず、辛抱ができず、熱心に習うことはしなくなっていました。
その頃の私は、ムビラ音楽そのものより、祖先崇拝の儀式とショナの文化に感動していました。
そして、その頃のパシパミレは、再婚したばかりでまだギラギラとした男臭さがあり、私が一緒にいて心地良い人ではなかったのです。

2003年から2005年まで、私は体が不自由だったせいもあり絵描きとしての活動が主で、ムビラ・ジャカナカのムビラ活動を補助したりして、ムビラを弾いていました。
2006年、私は再度ジンバブエを訪ねることができました。その頃には、旅の目的はムビラの演奏技術を向上させ、日本でパフォーマンスをしていくという強い思いに変わっていました。
私の師匠は、最初からパシパミレのみです。彼の偉大な功績は後に知ったもので、最初に出会って縁があったから、彼でいいと思っていました。ムビラの伝統と言っても、プレイヤー達はそれぞれの違ったニュアンスで表現してきます。音楽的にあまり器用でない自分が、いろいろな人に習っても混乱する。何事も一途に狭く深くやって生きたい私の性格と、自分の伝統に誇り高くそれを伝えたいパシパミレとの性格は、一致しました。

2006年、再会したパシパミレは、前年大病をし、子供を亡くし、痩せて皮膚も艶なく性格も丸くなって、すっかり付き合いやすい人になっていました。この時から、職業柄多くの病人を見てきた自分は、「この人長生きしないなあ。」と思ったものです。
パシパミレは、「エリカが、再び戻ってくるとは思わなかった。」と言って、未熟な私を迎えてくれました。
いつもレッスンの前に、一緒に屋外で朝食を食べました。暖かい日差しの中で、彼が白人が来る前のショナ固有の文化、歴史を語る時間が好きでした。この文化の一端で、自分ももっと深く感じていたいと思いました。
「祖先の霊を降ろせてこそグエニャンムビラ(ムビラ弾き)なんだ。俺にはその力がある。」
そう話すパシパミレに、私は彼についていこうと思いました。
ムビラ音楽ももつ、祖先の霊とつながるというシンプルな目的に、この音楽を日本で伝えていくことは大切だと、確信しました旅でした。

1年半、おいて2007~2008年私は再びパシパミレのもとに行き3ヶ月を過ごしました。
この年から、私は彼の一家との同居を願い出ました。宿から通うのではなく、もっと身近で多くの時間彼に習っていたかったのです。
このときの旅も、前年ならった曲をレコーディングして教本を作り彼の技術を残すこと、前年日本で言う法事の儀式「Guva」を体験したかったのですが、他の親族の反対でできなかったので、その儀式に参加すること、私の旅の目的は決まっていました。
一緒に住み寝食をともにし、私はパシパミレのことを「セクル(おじいさん)」と親しみを込めて呼ぶようになっていました。私は、彼の子供のような存在で、その年私も実父を亡くしていたので、彼が私に生活習慣や生き方、ムビラ以外のことまで助言してくる口やかましさも、素直に受け取れました。
レコーディングも、彼が納得するまで練習して、一発撮りなので、少しずつしか進まず、帰国が決まって時間の限られた私と満足いくものを作りたい彼の間で、喧嘩も一杯しました。
でも、彼は、音楽的に未熟な私を、「エリカは、立派なグエニャンムビラだ。スピリットが見守っている。自分の成功を信じろ。」といつも励まし、褒めてくれて、今のその言葉が私を支えてくれます。
彼は、ヨーロッパでの演奏経験も豊富ですので、儀式で弾く以外にも、一般の観客に向けてパフォーマンスをすることを知っていました。「オーディエンスにアピールすること」として、目線や姿勢、言葉によるメッセージなど、彼から教わったパフォーマーとしての姿も今の私を育ててくれました。
Guvaの儀式で彼の生まれ故郷モンドロに言ったとき、彼の生まれ育ったモンドロの草原の生活と儀式の手順に、自然と人間、スピリットとの交わりの近さを感じ、これがムビラという文化を育みパシパミレのような人を育てたのだと、日本の都会で生きてきた自分との感性の違いを思ったものです。
儀式で、パシパミレが弾き出すと、場の空気は一変しました。儀式での彼は、練習のときの比ではなく、儀式の小屋を一体にしました。ムビラは、こんなにも恐ろしい、この世とあの世を結ぶ強い力を持った楽器なのかと、改めてムビラという楽器のすごさを思い知ったのでした。
儀式の後、私は、この人を日本に呼ぼうと強く意識しました。
この年、パシパミレ家の周囲で葬式が多かったせいもあり、ジンバブエ人の一生に突然終わりが来ることを、実感してしまいました。
私達が、日本でどんなにムビラを弾いても、ムビラの真の力を引き出すことには限界があります。
パシパミレが元気なうちに、この音楽の真の力を、日本人に見てもらいたかったのです。
急に私が言い出したので、他の日本人ムビラプレイヤー達から戸惑いの声が上がりました。でも、パシパミレ本人と私は、この計画の成功をなぜだか強く信じました。

帰国してから、私は次の年のパシパミレ招聘ツアーの準備に励みました。金銭面の不安が大きかったので、教本の製作、CDの製作を急ぎ、全国で支援者をつのりました。
パシパミレも、パスポートの取得に努力したり、前向きな姿勢を保ってくれました。
2009年、ツアー準備にジンバブエを訪ね、彼の家に再び同居しました。
この滞在は、日本ツアーに向けての練習ばかりでした。
「この楽器は、子供から大人まで楽しませ、人種や年齢など関係なく、すべての人に平和と協調を作り出す力がある。日本の人々は、私たちのムビラと一体になるだろう。」
私は、ツアーが滞りなく進むように、関係各所への連絡に気をもんでばかりいましたが、本人は本当に強く成功を信じていました。彼の自分の文化への誇り高さと人類はひとつだという思いが、日本ツアーの実現まで導いてくれました。

2009年4月日本に来たパシパミレは、1ヶ月日本各所を回りました。
文化の違いにそうとうストレスを感じたと思います。私は、金銭的に豊かでなく、私の家に住み、私や私の家族の食事を食べ、地方でもすべて心ある方々の家に泊まらせてもらい、一泊もホテル暮らしをしませんでした。お礼としてあげられたお金も、彼の満足のいく値段ではなかったと思います。ツアー中、私のパフォーマンスも完全ではなかった。こんなすべてに未熟な私の計画に、パシパミレは最後まですばらしい演奏をしメッセージを残して、協力してくれました。私は、もっと待遇よく彼を日本に迎えてあげたかった。自分の未熟さに後悔があったので、再びジンバブエに言って、彼に謝りたいぐらいの気持ちがありました。でも、もう私は彼の言葉を聴くことはできません。
私の家の電気掘りコタツで「こんな暖かい机があるなんて」と言って、ちょこんと座っていた姿、満開のサクラの下で酔っ払った姿、私の母に、港の見える丘公園に連れて行ってもらい「すごい山に登って海を見たんだ」と言っていたり、コンビニのレジでお辞儀をする店員に向かって「グリーティングをしてくれた」と丁寧にお辞儀をしていた姿、ワインを好んで飲んで日本の若者と「ピース」と言い合ってはしゃいでいた姿、彼と過ごした日々が忘れられません。
日本ツアーでは、ムビラを初めて聞く老人達を前にしても、小さなカフェでも、すべての会場で彼は、人々に人類に共通する魂の存在を教えました。「懐かしい音」と多くの人が言ってくれて、踊って、涙し、彼に握手を求めました。
彼の訃報に対しても、多くの方が迅速にお見舞いの気持ちを送ってくれました。
人類は魂の部分で繋がっていて、そういう音楽は人種も年齢も生活環境も関係なく、人類をひとつにするんだと、パシパミレが教えてくれたメッセージを、また私は確認することができました。

思えば、2006年から2009年まで、毎年私はパシパミレのもとを訪ね、彼と密度の高い日々を過ごしました。たった3年です。
なんであんなに焦って、私は彼の元へ通い、商品を作り、招聘し日本ツアーをしたのでしょう。
ムビラのスピリットが、私にパシパミレとの出会いを与えてくれて、深いところで私の魂に進むべき道を教えてくれ、導いてくれていたのだと、パシパミレの訃報を受けて感じました。
ムビラの表現に迷ったら、またパシパミレの元へ行き教えを請おうと思っていました。師匠を亡くして、私は心細くて仕方がありませんでした。
しかし、パシパミレは、自分の文化を私達に繋いでくれました。私達は、何百年と続くショナ族のムビラ文化の一端にいます。彼の教えを大切に、文化を繋いでいくこと、人類をひとつにしていくことを亡きパシパミレは望んでいる、そう心を整理しました。
祖先のスピリットへ、パシパミレへ、このムビラ音楽へ私を導いてくれたことを、深く感謝します。
私達は、この日本で新たなムビラ音楽を作り続け、パシパミレの思いを繋いでいこうと思っています。
セクル横浜1

| アフリカ、ムビラ | 20:17 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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