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元氣メグル日々 エリカのブログ

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2019ジンバブエ その2

ジンバブエはインターネットの接続が非常に悪く、一日のうちに瞬間的に繋がるのみ。SNSも送信できず、連絡が取りにくい状況。マルチカレンシーを廃止した6月末ぐらいから、こんな状況の様子。人々はキャッシュ不足で、給料もエコキャッシュという電話番号にリンクさせた電子通貨で振り込まれたりしているが、ネットワークが悪いと使えず買い物も出来ない。キャッシュもなし、電子通貨もなし。それでも人々はゆったりと、電波が繋がるのを待っている。
ジンバブエは、ほぼ8割が農民だと言う。農家で自給自足に近い生活があるから、このインフレーションやマルチカレンシー廃止といた為替の危機をしのいでいく。日本だったらしのげないだろう。私はこの国の自給自足の生活に、経済危機に打ち勝つ道をみてしまう。

例年お世話になっているビレッジ4Bのチアニケ家に移って来た。メンバーが入れ替わっていても、4人の女の子と7人の男の子の11人の子供の面倒をみていた。その中の3人は、孫ではなく遠縁の子だが、誰も面倒をみる人がいないから引き取っている、チアニケのその懐の大きさ。それに比べて、日本の核家族、近所付き合いのなさ、コミュニティーに属さなかったり、個人で引きこもっている小ささ。

娘はほぼ同じ歳の女の子たちと、終日真っ黒になって遊んでる。もうショナ語で喧嘩をしだした。
15頭牛がいて3頭出産したので、牛乳が豊富にとれる。毎日子供たちが搾乳しているが、私たちがやらせてもらうと上手く絞れない。今年はもう少し上手くなりたい。
ヤギも牛も目の前で勝手に出産する。鶏もヤギも、目の前で絞められて、美味しくいただくことになる。飼っている鶏たちも、途中でヒヨコのうちに死んだりするが、残酷に子供は遺体をもてあそぶ。勿論、娘も一緒になって。
井戸水をくみ、乾季なので、野菜に水をあげ、収穫し。囲炉裏に薪をくべ、料理し。
ここの生活は、すべて自然の恵みの中で、手作りだ。
ここの生活は、人の生きる術がすべてある。娘が毎日発見する思いを聞いていると、学校教育よりも、もっと深い学びがあると娘が学齢期になったからこそ感じる。学校に遠慮して、夏休みのみの旅にしたが、思いきってもっと長く旅すればよかったと、思ってしまった。
娘には、「やはりジンバブエに住むことにしようよ」と言われるが、それはもう挑戦済み。外国人がサバイブするには難しい国よ。

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〈南アフリカ、ジンバブエ旅記2016 その5〉レオナード・チアニケ氏について

住み込んでムビラ修行させてもらったレオナード・チアニケ氏は、欧米からのムビラ注文は尽きず、アメリカやバリ島に招待された経歴も持つが、日本ではムビラメーカーとしてもプレイヤーとしても情報が少ない。しかし、今回共に過ごして、ジンバブエの中でも最高級のムビラを作れる素晴らしい職人だと確信した。そして、奏者としても実に多彩で素晴らしく、教師としても無口だが質問には的確に答え、丁寧な教え方をしてくれて教師としても素晴らしいと感じた。
もし村の生活をしながら、ムビラを習いたいと思う人には、このリンガ村のレオナード・チアニケ氏をお勧めしたいので、以下のプロフィールを載せました。
ご興味ある方は、ご連絡ください。

レオナード・チアニケ氏の経歴
1953年生まれ。63歳。(亡き師匠パシパミレが1952年生まれだったので、同世代だ。)
トーテム MHOFU モフ (大鹿エラント)
チオタ地区がチアニケ家の出身村だが、父親が乾季は建築業、雨季は農業や白人の農園の警備をしていた為、幼いころはジンバブエ各地を転々とした。
1962年チノイに住む
1964~1971年 ムジュル家と父親が親交があり、ルサぺのダンバテォーコ村に住む。9歳のそのころムビラを弾き始める。フェラドリック・ムジュルは、幼馴染でともに学校に通った仲であり、今も親交が深い。その為、毎年1、2、9月のダンバテォーコでの儀式にも参加している。祖父はンジャリ奏者、父はムビラ奏者だが、ムビラ製作はしなかった為、ムビラ製作の技術はムジュル家より学ぶ。
1971~1983年 出身村チオタに住む
1983年~ 1980年のジンバブエ独立後、1983年にリンガ村がリッセトルメント(白人農地を没収し、黒人農家へ再分配した再開墾地)に移住し、現在に至る。

レオナード・チアニケ氏製作ムビラ
Bニャマロパチューニングがリンガ村では多く使われ、レオナード氏のスタンダード。
マベベンベチューニング、ダンバテォーコチューニング、カッサンガイラチューニング(Cニャマロパ)など注文に応じて作製。
ムチェンジチューニングは、レオナード氏がお気に入りの特徴的チューニング。右手ネテテは、ダンバテォーコチューニングと同じ音程。左手上段もネテテと同じ音程になっているドンゴンダチューニングの一種で、左手下の段はダンバテォーコチューリップより一音程高い。幼いころ住んでいたチオタ地方で使われていたチューニングという。
キーの素材は、スプリングを使用し、焼いてからハンマリングを行う。固めで強いサウンドで、鳴りが良い。
キーの固定は、ワイヤーを使用した伝統的スタイル。
ガリワは、ハラレからムクワの木を購入しており、非常に上質。

ムチェンジチューニングには、驚きました。今年は、ニャマロパとムチェンジチューニングを作ってもらいました。
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〈南アフリカ、ジンバブエ旅記2016 その2〉ジンバブエ、リンガ村ビレッジ7

南アフリカ、ウムタタを出て首都ヨハネスブルグまで13時間。その足でジンバブエのハラレに向かうバスに乗った。ヨハネスブルグからハラレまで、国境ベイトブリッジを抜けて陸路でいくのも10年ぶりぐらいだ。
予定では19時間で着くはずだった。しかし、これまたベイトブリッジの南アフリカ側で4時間、ジンバブエ側で2時間、通貨に時間がかかり、結局24時間のバス旅となった。南アフリカのイミグレーションが職員が少なくて業務が進まないので、深夜長蛇の列で遅々として進まないのだ。もう、ベイトブリッジ通過の旅は、懲り懲り。
バスは、ハラレまで行かずに村の入り口ウエストミニスターで降りて、8か月振りのリンガ村へ帰った。

ビレッジ7の夫の家には、20歳の長男ベナードひとりがいて、夫は今年一月以来村に戻っていなかった。ベナードは首を長くして、私たちを待っていてくれた。近所の大人も子供も、大歓迎で再会を喜んでくれた。
ベナードは、私たちがいなくなった後も、ひとりでメイズの収穫をして自給自足し、野菜を作りハラレで売って現金を作り、生活していた。彼は、夫が出生時に認知しなかった為、15歳で父親の家に来たが本名は母親の性で、出生証明書も父親無記名のままだった。成人し父親のトーテム、マジンバクッパで呼ばれる今、出生証明書を書き換え、IDカードを作ることが彼の願いだったが、今年野菜を売って100ドル以上作り、ハラレで父親、母親を呼び寄せ、裁判所に行って出征証明書を書き換えてIDカードも作ったそうだ。
この願いを実現させたことは、正直私は驚いた。若干、20歳の彼は、日本人の20歳よりずっと自立し自分の人生を切り開いていた。
ジンバブエの子供たちは、両親が現金収入を得るため都市部や海外に出て、村にいる親戚や祖父母に預けられている人が多い為か、子供のうちから料理、洗濯、家畜の世話、農業と家の仕事をし、自立しているのだ。ベナードは、家の貧しさから小学校を修了できなかった。しかし、彼のこの生きていく強さから、自然との生活が人の心も体も強く、逞しくしていくと学ばされる。

久々にビレッジ7の家で、薪を使って料理をして、昨年一年の暮らし慣れた家事を味わった。やはり、この原始的な村の大地からの恵みで生きていく生活が居心地が良い。

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保育園入園

3月から保育園に通い初めた娘。
初日はさすがにお昼寝はできなかったけど、初日から楽しく通っています。
人見知り、場所見知りを、生まれた特からしない娘の性格に救われます。
どんな所でも、どんな人とでも、楽しんでしまう娘の笑顔に、とにかく楽しんでいかなくちゃと親が教わります。
子供は親を模倣して大きくなるものだから、私が楽しまなくちゃと思って、「ママも楽しくお仕事。」と話して聞かせています。
介護施設のナースを変わらずしているけど、急変もあるし戦場のような日もある。でも、私はこの高齢者たちを愛している。楽しんで仕事していると思えます。

保育園は出欠時間を昔ながらの、タイムカードで取ります。
7:31~18:30が通常時間でそれよりオーバーすると、30分おきに延長保育料金がかかるので、タイムカードで管理しています。人も財源も足りない中、保育園を経営しているので、理解できるのですが。
仕事に行っても勿論タイムカード。
この分刻みの日本の生活に、窮屈さを感じずにはいられない。
時間を切り売りしていて、時間は本当が宇宙と繋がっている大きな世界のはずなのに、私の時間と私物化されてしまう。

ジンバブエの村での生活は、朝と夜の間に昼があるぐらいの感覚でした。
太陽の動きを見て生活し、月を仰いで寝る、宇宙とともにある生活。
子供の頃ぐらいは、朝と夜と午前と午後ぐらいの感覚で生活できたらいいなぁと、娘を見ていて思います。

予防接種を受けていない娘は、今週は水疱瘡で保育園をお休み。抗ウイルス剤も拒否して、水疱に軟膏塗っただけで過ごしましたが、2日ほど発熱し、水疱もまだらに出来ただけで軽くて良かった。
余りにも丈夫で病気しないので、心配していたんです。子供のうちにやるべき病気はかかって、抗体つけてほしいものです。
親は病気されると仕事にいけないし、具合悪くて愚図る子の世話に疲れますが、仕方ない親の務めですね。

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ジンバブエの年末

ジンバブエの年末

ジンバブエはクリスチャンが多数派の国。多くの企業が19日ぐらいから仕事納めになって、クリスマス休暇に入ってしまいます。

村は、農繁期なので今はどこの畑も蒔いたメイズに肥料をあげることと、雑草とりに忙しい。雑草取りはsakuraといって日本語みたい。
12月末には、通常ならメイズは1mぐらいの高さには成長していなければならないけど、今年は雨の降り出しが12月からで遅く、気温も高すぎ傾向で異常気象です。どの畑のメイズも20cmぐらい。
雨が降ると一家総出で種蒔きしたり、朝から雑草取りしたり、天気と会話し、農業が生活そのもの。都市に暮らす人も、庭にメイズを蒔き、農村部のメイズの育ち具合を気にして、日本より圧倒的に農業が身近です。自分の命を支えるものを育て、育ち具合を気にする、それが本来の生き物ですよね。

私はクリスチャンでないので、クリスマスは祝福する気にはならないのですが、村で過ごしたクリスマスは楽しかったです。
まるで日本のお正月のよう。近所の家では、ハラレで暮らす子供たちが帰ってきたり、沢山の人に囲まれて朝からチキン、ライス、サラダといったご馳走を食べます。子供たちは、この日は靴、服一式新しいものをプレゼントされお洒落して、数ドルのお小遣いをもらって、みんな村の中心部の店に集まって飲み食いします。
この日だけは特別で子供も夜8時ぐらいまで店にいました。あんなに大勢の人が、村の中心に来るの始めてみた。村中の人が一体になって祝福していて、素朴で暖かくてこういうクリスマスはお祭りだ。
うちの娘もクリスマス用でなく日本のイベント用に買ったドレスですが、お洒落してみました。3歳児なら余裕と言われたのに、もうミニスカート。

26日は、クリスマスボックスを開ける日だったらしく、会う人みんなにクリスマスボックスくれ、と言われました。村長のサブクが酔って「明日クリスマスボックスあげるからうちにおいで」と言っていたので、真に受けて行ったら、クリスマスボックスはなく、朝から手作りの雑穀のどぶろくをご馳走になり、またそれが美味しいし強いし、ほろ酔い続きのクリスマスでした。

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